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August 22 村上春樹の世界千葉に引っ越してきて一ヶ月半。最近ひと駅行ったところにある図書館によく行くようになった。昔は返すのが面倒であまり好きじゃなかったけど、行ってみると意外に最近の本も置いてあったりしてなかなか使える。これ以上部屋に本を置くスペースもないし、何よりタダって素晴らしい。
先週は村上春樹の『海辺のカフカ』を読んだ。久しぶりの村上春樹。『風の歌を聞け』を読んだ高校一年の夏、カリフォルニアの乾いた風が吹いているような爽快感と、ちょっとナイーブな主人公たちがつむぎだす言葉たちに夢中になった。どの作品を読んでも、本に心の何かを抜き取られたかのような虚無感があり、その読んだ後の空っぽの感じが当時の僕にはたまらなかったのだ。僕はフィッツジェラルドとサリンジャーを読み、形而上学とメタファーの意味を覚えた。けだるい脱力感と予想もしない想像の連続、今思うと村上春樹の小説とマリファナはすごく近い。
さておき、『海辺のカフカ』。相変わらず読み手から何かを吸い取るような文章は健在だけど、『羊をめぐる冒険』や『ダンスダンスダンス』のような世界観の広がりはなくなっている感じがする。もしかしたら作家としての成長、というものなのかもしれないけど。ただ、すべてを否定し、すべてを肯定する感覚はデビュー以来何ら変わっていない。つまり空虚だ。やはり完璧な文章など存在しない、完璧な絶望が存在しないように。
もはや彼の本は文字を追うのではなくて、村上春樹の雰囲気を味わうことが目的になったのかもしれない。村上春樹的にいえば、僕らは本を読んでいる時点で形而上学的な文字を追っているのではなくて、そこにあるものを感じているだけ。つまりは読者の中には村上春樹はすでに存在せずに、メタファーとしての村上春樹だけが(村上春樹的なものだけが)存在するってことなんだろう。
やはり完璧な文章など存在しない、完璧な絶望が存在しないように。 August 21 ウズベキスタン航空の不思議9月のウズベキスタン旅行のキーポイントだったタシケント-ウルゲンチ間の航空券を無事購入。
10日間くらい前にウズベキスタン航空に問い合わせていたんだけど、「20人くらいキャンセル待ちだからね~」と言われキャンセル待ちに。ウズベク航空から全然音沙汰がなく、てっきりもう満席なと思い諦めかけていた。
昨日、トルクメンツアーを頼んだついでに旅行会社のお兄さんに問い合わせてみたら、ぽつっと一言「あー、あの人たち仕事しないですから、とっときますよ」。するとあっさり今日の午後にはとれてしまった。これって一日で20人抜きってことね。日本語流暢なウズベキスタン航空のお兄さんは何をしていたんだろう・・・手数料込で一万円。8000円ちょっとと聞いていたから、20人抜きで1000円ちょっとと思えば安いもんだ。
これで旅程もこんな感じで決まり。トルクメニスタンツアー参加者は見つからず、一人でガイドと車を雇うことになりそうだけど、まあいいや。なにせトルクメンだから。
9/18(木) 成田13:30/ソウル16:00/タシケント21:00
9/19(金) 朝一でタシケントからウルゲンチへ飛び、ヒヴァへ
9/20(土)終日ヒヴァ(ヒヴァ泊)
9/21(日)ヒヴァから乗り合いタクシーでトルクメニスタン国境を越えクニャ=ウルゲンチからアシュガバッドへ(アシュガバッド泊)
9/22(月)午前中アシュガバッド観光、午後マリへ移動し夕方メルブ遺跡へ(マリ泊)
9/23(火)マリから車でウズベク国境越えてブハラへ(ブハラ泊)
9/24(水)ブハラからサマルカンドへ(サマルカンド泊)
9/25(木)終日サマルカンド
9/26(金)サマルカンドからタシケントへ(できればレギスタン号乗りたい)
タシケント22:20/ソウル翌日08:50/羽田18:45
先週末に図書館で予約していたCD付ロシア語会話も無事ゲット。さっそく明日から毎朝電車の中でipod聞きながらロシア語つぶやこう。 August 14 オリンピックと中国北京オリンピック真っ只中。今夜もテレビをつけたら野球の台湾戦をやってる。7回表で2対1で日本リード、台湾戦なのにすっかりおなじみになった「中国加油!(中国がんばれ)」の声が聞こえるのは、きっと地元民が叫んでいるのだろう。
聞いたところによると開会式の視聴率が98%だったとか。中国にとってみたら1840年のアヘン戦争以来の雌伏の時を経て、ようやく世界の中心に戻ってくる象徴的なイベント。こちらの常識を超えた盛り上がり方もわかる気がする。
そういえば、2001年に北京でのオリンピック開催が決まった時もすごかった。その時僕は雲南での留学を終え、昆明の自宅で旅に出る準備をしていた。その日は朝からCCTVでオリンピック特集、そしていざ北京開催が宣言されると、大地が揺れるかのような歓声に続き爆竹があたりに響き続けた。
1997年に日本が初めてサッカーW杯に出た際、岡野がゴールを決めた時の筑波の学生宿舎(平砂9号棟)もすごい歓声だったけど、あんなもんじゃなかった。まるで13億の人民が叫び飛び跳ねていたかのような騒ぎだった。テレビを見ると「我们赢了!(私たちは勝った!)」の大きなテロップが画面一面に広がっている。私たちは勝った。この表現今思うとすごく中国(人)のメンタリティを表している気がする。うまく表現できないのがもどかしいけど、これが中国なんだよなあ。
振り返れば、2000年のシドニーはラオスから雲南を経て香港への長い旅の途中で、2004年は陝西省の山の中で公安にイチャモンをつけられていた。ゆっくり日本でオリンピックを見るのは12年ぶりになる。
4年後はどこで見ることになるんだろう。できれば中国以外の場所で見られたらうれしいな。
August 13 「とんかつ太郎」を想う一昨日の昼、無性にかつ丼が食べたくなった。銀座のオフィスを出て有楽町まで歩き、友人からうまいと聞いていたガード下のかつ屋さんへ急ぐ。
僕はかつ丼が大好きだ。海外にいた時、食べたくなる日本食は?と聞かれたら、僕は迷わずかつ丼と答える。ちなみに二位はラーメン、三位はオムライス。ともかくかつ丼が好きなんだけど、そのきっかけはつくばで暮らしたことがある人ならよく知る「とんかつ太郎」(通称「太郎」)だった。
僕の太郎デビューは遅く、大学5年の秋のこと。「うめえかつを食べさせてくれる大将がいるんだよ、フィリピンパブの前に行こうぜ」最近めっきりテレビに出なくなった、やるせなすの石井ちゃんそっくりの先輩はそう言って僕をとんかつ太郎に連れていった。誤解がないように言うと、二人でフィリピンパブに行ったわけでなく、太郎は僕がアルバイトをしていたフィリピンパブのそばにあり、バイト前に行くにはちょうどよかったのだ。
「へい、らっしゃい!」店に入るとまるで寿司屋の職人のようなたたずまいの大将から威勢のいい声が飛んでくる。まずは前菜のポテトサラダ。まるでマッシュポテトのように柔らかくて甘いポテトサラダだ。そしてかつ丼。かつ丼用に薄く調理してちょっと甘めのタレが染み込んでいる肉に、タレが染み込んでもサクッとした衣。そしてシジミの赤だしみそ汁。すべてが完ぺきだった。
それから僕は週に一回はとんかつ太郎に通った。最初は一人で行けなかったのに、気がついたらいつの間にか一人でのれんをくぐって読売新聞持ってカウンターに座っている自分がいた(そう、太郎には読売新聞が置いてあった)。かつ丼だけじゃなく、ロースかつ、ひれかつ、串かつ、ミックス定食、どれもがうまかった。そして安かった。
次第に店の主人である大将と二言、三言言葉を交わすようになったが、かつを揚げている間は大将とはほとんど話すことはなかった。後で聞いたところ少しの音の違いで揚げ具合を聞きわけていたらしい。客がいるときにアルバイトの私語が多いとその場で叱る。かつ丼600円のお店で、それほど真剣勝負をしていたのだ。
そして太郎に通い始めて2年ちょっと経った確か2004年の秋、調査から帰ってきて店に行こうとしたら「しばらく休みます」との張り紙があった。どこか旅行にでも出かけたかなと思い、二週間後に行ったがまだシャッターはしまったまま。そのうち風の噂で癌で亡くなったとの知らせを聞いた。
あれから4年。僕は社会人になり、赴任、出張でいろいろな土地に行くたびうまいかつ屋さんを探して食べ歩いたが、まだとんかつ太郎を超える味に出会ったことがない。学生の時には気がつかなかったが、あの値段であれだけうまいかつを食べさせてくれていたのはものすごいことだったのかもしれない。
結局、有楽町のかつ屋もそれなりだったけど、かつ、みそ汁、付け合わせ、どれをとっても太郎を超える味ではなかった。もちろんコストパフォーマンスは言うまでもない。いつの日か太郎を超えるとんかつ屋さんに出会うまでメタボにならない程度にかつ屋めぐりをしていきたい。
皆さん、おすすめのとんかつ屋あったらぜひ教えてください。かつ好きな人、一緒にかつめぐりしましょう。 August 12 富士山頂でライスシャワー先週末、富士山へ登った。二年半前にトルコのカッパドキアからシリア国境に向かうバスの中で出会った友人に誘われて、10数人で登ってきた。
富士山は学生時代夏休みにアルバイトしていた場所。梅雨が明けた8月上旬は7月8月の登山シーズンでも一番人出が多く、新宿から富士山五合目までのバスチケットがとれずに、まず河口湖に向かうことになった。
河口湖で山小屋、蓬莱館に差し入れる桃を買う。さすが山梨、桃の産地だけあって1個100円で売っていたので、人数分も買う。白い身に(当たり前だけど)桃色が差し、ほどよい熟れ具合だ。これはうまそう!みんなで頂上で食べよう。
五合目はツアー客を含んだ登山客でいっぱいだった。よく見ると見慣れた顔のガイドさんも見える。ここでアルバイトをしていたのはもう何年も前のことなんだけど、挨拶するとガイドさんも山小屋のスタッフも僕のことを覚えてくれていて、うれしかった。富士山で働いていた時は、数えきれない人たちと接した時間を通じて旅での感動を共有する喜びを教えてもらった。ここは今でも僕にとって大切な場所だ。
天気はうす曇り、無風。いつも風が吹いている富士山では絶好のコンディションだ。途中7合目から登山客で渋滞し、いつもなら3時間くらいで登れるところ4時間半かけて八合目蓬莱館に到着する。これだけ人が多いと、12時前には起きないと登山道で渋滞が起こり頂上でご来光を見るのは難しい。ここは快適な登山が目標ということもあり、後発組と八合目でご来光を見ると決めみな夕暮れを眺めながらでビールで乾杯!なんというか、雲の上でビールを飲む、このシチュエーションたまらないよね。
翌未明、4時前に起床。周りの人たちが頂上でのご来光に向けてガサゴソと準備をするなか、僕らは高いびきで7時間ほど熟睡したことになる。ほとんどが初の山小屋だったのにこの熟睡ぶりはすごい。さすが旅慣れたやつらは違う。
この日の朝は眼下に雲海が広がりその上は好天、一番よくあるパターンのきれいなご来光だった。間抜けなことにご来光に見とれて写真を撮り忘れた。ということで、これまで見たご来光の中で一番きれいだったのを。ちなみに2005年8月4日だったはず。
もう何十回も富士山でご来光を見ているけど、いつ見ても神々しい。日が出る前は容赦ない寒さと猛烈な風が吹き、まるで生き物を拒むかのような場所なのに、一本陽光が差し込んだだけで世界は暖かい光に包まれる。まるで神様がそこに命を吹き込んだかのように、ただきれいなだけじゃなくてそこにすがりたくなる美しさがある。
日が出てから2時間ほどで頂上に到着。頂上で河口湖から持ってきた桃を食べ、今度結婚することになった二人を山小屋から持ってきた米でライスシャワーで祝福する。ライスシャワーというよりもはや豆まきみたいだったけど、二人ともおめでとう!
下りは二時間で五合目まで下って、新宿駅で5時からビールで乾杯。ヨウスケ、コータロー、誘ってくれてありがとう。充実した週末だった。
August 09 ウズベキスタンの旅程案ウズベキスタン行きのチケットを予約して一週間。だいぶスケジュールが固まってきた。できたらもう一カ国行けたらいいなあと4travelでいろいろ調べていたらトルクメニスタンにも行けそうなことが判明。なにせ別名「中央アジアの北朝鮮」、「オレ様の国」…これは面白そうだ。
トルクメニスタンはトランジット以外は個人旅行が禁止。旧ソ連圏に強い代理店に問い合わせたところ、手配旅行で3泊4日8万円ちょっとで行けるとのこと。むむむ!これは行くしかない。
月曜日に二日目朝のタシケント/ウルゲンチの飛行機をウズベキスタン航空に問い合わせたけど、キャンセル待ちでいまだ返答なし。朝に移動できると楽なんだけど、無理なのかな。今のところ旅程はこんな感じ。
9/18(木) 成田13:30/ソウル16:00/タシケント21:00
9/19(金) 朝一でタシケントからウルゲンチへ飛び、ヒヴァへ(航空券とれたら:ヒヴァ泊/とれなかったら終日移動・・・)
9/20(土)終日ヒヴァ(ヒヴァ泊)
9/21(日)ヒヴァから乗り合いタクシーでトルクメニスタン国境を越えクニャ=ウルゲンチからアシュガバッドへ(アシュガバッド泊)
9/22(月)午前中アシュガバッド観光、午後マリへ移動し夕方メルブ遺跡へ(マリ泊)
9/23(火)マリから車でウズベク国境越えてブハラへ(ブハラ泊)
9/24(水)ブハラからサマルカンドへ(サマルカンド泊)
9/25(木)終日サマルカンド
9/26(金)サマルカンドからタシケントへ(できればレギスタン号乗りたい)
タシケント22:20/ソウル翌日08:50/羽田18:45
こう見ると、やっぱりタシケント/ヒヴァ間の移動がどうしてもネックになってくる。なにせ陸路で移動になるとバス14時間、鉄道19時間・・・逆にいえば、トルクメニスタンツアーを手配するには出入国日と地点を報告しなければならないから、先にFIXしなきゃ前に進まない。最悪の場合、逆回りでもいいか。サマルカンド/タシケント間の鉄道にも乗りたいし・・・さあ、いよいよ楽しくなってきた。 July 31 青の都へ今年の夏休みの予定が決まった。9月の連休に休みをとって、スターアライアンスマイルでウズベキスタン行きのチケットを購入。2001年に留学していたころから夢見ていた中央アジア、「青の都」サマルカンドへ行ってきます。
一昨年の中東、昨年のパキスタンに続き、今年もイスラム圏。荘厳な装飾が散りばめられたサマルカンドのモスク、街をとりまく城壁がそのままの姿で残っているヒヴァ、30年間で巨大な湖が半分になってしまったアラル海、時間が許すなら「中央アジアの北朝鮮」トルクメニスタンも行ってみたい。
アレクサンダーの時代から民族が入り混じっていた土地ではどんな人たちがどんな表情で暮らしているのだろう。砂漠に囲まれた街が夕暮れに沈む時、青いモスクと空はどんな色に染まるんだろう。ヒゲもじゃもじゃおじちゃんが路上で売っているケバブはきっと涙が出るくらいうまいんだろうなあ。
出発まであと一ヶ月半、この準備期間が一番楽しいんだよなあ。「旅人」でいられる幸せをかみしめながら出発までの時間を過ごしたい。 July 23 満ち足りた夜先週土曜日、一年ほど前から準備してきたコンサートが無事に終わった。 秋野豊メモリアルコンサート。10年前にタジキスタンで亡くなった秋野さんを慕っていた教え子や同僚が集まってなんとか作り上げることができた。隅でお手伝いをしていた僕でさえ二、三日この感慨を言葉にすることができなかったのだから、この日のためにフルオーケストラの曲を書き上げたつねさんや、事務局長のよっちゃんはなおさらだったと思う。 当日は、日本国内だけじゃなくブリスベンやワシントンから友人たちが呼びかけに集まってくれた。みんな、あの素晴らしい時間を共有できてよかった。そして僕の無理なお願いに120%応えてくれたスタッフのみんな、本当にありがとう。 コンサートの後の同窓会、二次会では学部創立当時の一期生から現役の二十何期生まで、ほとんどが初対面なのにまるで昔からの旧友に会ったかのように語り合った。みんな最高に刺激的な人たち。ああ、この場所で人生の大切な時間を過ごすことができて僕は幸せだったなあ。明け方、ホテルへ向かうタクシーの中でまどろみながら僕の心は溢れんばかりに満ち足りていた。 July 07 さよなら名古屋、ばいばい春日井先ほど部屋の荷物を送り出し、春日井、そして名古屋とお別れしてきた。 いつも駅に向かってた平凡な道を、いつも通り春日井駅へと歩く。学校から帰る小学生が通り過ぎ、買い物へ向かうおばちゃんが自転車で僕を追い越していく。僕はいつも寄ってたタコ焼き屋とパン屋に顔を出して世間話をする。 いつも通りの光景。だけどもうここには戻ってこないと思うと、このありふれた日常がとても愛しく思えてくる。 振り替えれば異動前のここ二週間、毎日祝ってもらっていた。身も心もデカい会社の上司、名古屋の遊び方を教えてくれた同僚に取引先、会うとすぐ学生時代に戻れる大学の友人、そして名古屋で出会った友人たち。 みんなありがとう。仕事で、そしてプライベートでこうして気のおけない人たちに囲まれて幸せだったなと、心からそう思う。そしてまた帰ってきたら、手羽先片手にじっくり話したい。その時は金時計前でもナナちゃんの左足でも、どこでも行けるぜ。 気がつけば新幹線も静岡を通り過ぎ富士の煙突が見えてきた。明日からの新しい生活、また新たなステップを楽しんでいきたい。まずは朝きっちり起きるところからだな… July 05 兄の結婚式 今日、兄の結婚式に軽井沢まで行ってきた。 もともと男二人の兄弟で、それほど仲がいいわけでなく、性格も正反対。 加えて僕は18の頃から12年一人暮らしだったから、ここ数年はほとんど会うこともなく疎遠だった。 でも、いいもんだね。 あんなにうれしそうな兄の顔は初めて見た。 小さい頃からそれほど好きじゃなかった兄のことが少し好きになった気がしたよ。 なんとか日帰りで帰宅。 今から荷造りです。 June 14 名古屋を離れます7月から東京に異動することになった。 異動するのはなんとなくわかっていた上、自分が希望していた部署なのでとりあえずほっとしてます。 名古屋での生活に終わりが見えた瞬間、仕事にプライベートにやらなくてはいけないことが山のように見えてきた。立つ鳥後を濁さず。とりあえずTO-DOリストつくりから、いやまずはギプスを外すところから始めないと。 7/7に引越し予定なので、あと三週間思い残すことのないよう名古屋生活を満喫します。名古屋の皆さん、よろしくね。とりあえずはあつた蓬莱軒と山本屋、あと犬山城には行っておかないと。 June 05 画期的な違憲判決、でもどうするの?今日、最高裁で画期的な判決があった。婚姻関係にない日本人父と外国人母との間に生まれた子にも父親による生後認知だけで日本国籍を認めるとの判決を下したのだ。実は日本人の親を持ったから日本国籍をとれるとは限らない。かいつまんで話すと、これまで外国人と日本人との間に生まれた子どもの国籍に関しては、国籍法によって以下の三つのケースでしか日本国籍を取得できなかった。 「今回の判例でフィリピンでは数万人の日本人が生まれてしまうかもしれない」日本に働きに来ているフィリピン人の人権問題を研究している友人によると、今回の判例を読むとどこで生まれ育っても、父親が認知さえすれば国籍取得ができる可能性が高いという。そして、かつて働きに行った日本で、もしくはマニラの日本人向けパブで日本人男性と知り合い、子どもを授かり未婚で生まれた子どもたち(Japanese Filipino Children: JFCと言うらしい)が数万から十数万人いるらしい。そして彼らはそれほど恵まれていない経済条件の場合が多く、就労適齢期に達している人も多い。そんな彼らが認知をもって日本国籍を取得できるとしたら、どんな手段を使ってでも認知させ日本に働きに来ることは目に見えている。 May 24 感謝のキモチ今週月曜に退院して五日、片腕ギプスの生活はなかなか大変だ。 世の中には自分の身の上に起こってみないとそのつらさや気持ちを理解できないことがたくさんある。今回ギプスをはめてみてつくづくそう思った。手足が不自由なことの大変さをわかっていたつもりだったけど、言葉通りわかっていたつもり。全然理解できていなかった。 あと二ヶ月もしたら手首は完治する。そしたら困っている人を見かけたらすっと手を差し延べられる、そんな余裕と思いやりを持っていよう。きっとそれが今回の件で助けてもらった人への感謝のキモチの表しかただと、そう思う。情は人のためならず、ってやつかな。 May 18 入院って退屈なもんです入院四日目、昼過ぎに大学の友人たち、そして会社の同僚が来院。単調な中、本当にうれしいお見舞いだった。皆ありがとう。 夜は遅刻魔K谷が置いていったスイーツ五人前、食べきれずに看護士さんたちと夜食会。病院勤務って大変だわ。そりゃあヤケ食いしたくなるのも納得。とりあえずK谷GJ! 今日の一冊:東野圭吾『片思い』、伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』 五日目、前日遅くまで本を読んでいたせいで寝ぼけ眼で起床。気温が上がってきたせいか、寝汗をかきギプスの中がかゆくなる。 今は、右腕がひじから手首まで50センチほどをすっぽりギプスで固定されている状態なんだけど、上から指を延ばしても下からほじくっても、なかなか中までは届かない。そしてよりによってかゆくなるのは指が届かないところなんだよなあ。ゴアテックスギプス、開発希望。 今日の出来事:洗濯物を乾燥機から取り出したら、女物の下着が…こっそり元のところに戻しにいくとみゆきさん(推定80歳)のものと判明。みゆきさん、赤のパンティ、チョーセクシー(字余り) いよいよ明日退院、午後からさっそく仕事です。 入院便り入院五日目。退院が明日に迫ってきたので、ここらで入院便りを。 一日目、術後はゆっくり休もうと思ってたけど、半日ぐっすり寝たらすっかり回復。夜は思いがけない来訪にびっくり!Yちゃんお見舞いありがとう。赤福うまかった。 二日目、まだ右手をほとんど動かせず、横になるかテレビを見るか。ワイドショーにもすっかり詳しくなってしまった。この日のワイドショーネタ:そのまんま東が浅香光代にケンカを売られてさあ大変。 三日目、病院の食事の少なさと薄い味付けに我慢できず、近くのサンクスまで外出。黄色いTシャツに赤いハーフパンツ、それにギプスを巻いた右腕を頭の上にあげて歩いている姿は、金曜午後の名古屋のビジネス街にはミスマッチだった。この日のワイドショーネタ:そのまんま東、浅香光代に謝意示す 今日の一冊:開口健『サイゴンの十字架』、スタインベック『怒りの葡萄』 続く May 15 手術終了!昨日無事に手首の手術が終わった。今は病院のベッドで腕を吊りながらおとなしくしてます。 前腕の骨(橈骨)を削って手首に移植しプレート固定、そして血管を手首の月状骨に通す。思ったより大変な二時間半の手術だった。 布で手術部分は見えないのだけど、ウィーンガリガリッて骨を削り穴を開ける音が聞こえる。そして手術が終わりに近づいた頃、局部麻酔が切れかけて、骨を削られる度に気を失いそうな痛みが襲った。まるで身体がバラバラになりそうな痛み。まあ、骨を削られいるわけだからその通りといえばそのとおりなんだけど、今思い出すだけで脂汗が出てくる。 ともあれ、無事に手術が終わりほっとした。あとはリハビリ頑張ろう。 May 11 手術と入院 5月14日に右手首を手術することになった。 病名はキーンベック病。手首の手根骨は8個の骨で構成されているのだけど、その中のひとつ月状骨が壊死してしまう病気だ。原因は不明。何らかの圧力、細かい傷が原因で月状骨に圧力がかかり壊死したとのこと。名古屋の中日病院に5日ほど入院して、壊死している部分に血管を通すバイパス手術、そして月状骨への圧力を減らすため腕の橈骨を少し削る手術をする。つまりはちょっとバランスを戻してやるということになる。 2年前の春、ちょうど仕事を始めて北海道に行った時から痛くなり始めた。最初は「腱鞘炎だよ、ちょっと固定しておけば治るさ」と医者に言われ、一ヶ月ほどギプスをしていたら痛みは治まっていった。 その後、徐々にリハビリを始めていったのだけど、なかなか手首で何かが引っかかる感覚と硬くなっている感じがひいていかない。次第に回復していくどころか痛みもひどくなり始めた。最初は手をつくのが痛くなり、腕立て伏せができなくなった。次第にモノを持つのも苦痛になり、字を書くのも困難になっていった。 これは腱鞘炎じゃないなと思い始めて去年の夏あたりから名古屋近辺の色々病院をあたっていったのだけど、なかなか症状がわからなかった。キーンベック病と診断されたのは今年の3月。レントゲン、MRをとって手首の手根骨の一部に血液がいかなくなり壊死しているのが確認できた(写真の黒くなっているところが手根骨、MRIで見ると血流が悪くなって黒く映っている)。 仕事を始めてからこの二年間、常に手首の痛みと共にあった。目の前の仕事をこなすためには痛みを我慢しなくてはいけない時もあり、手首の痛みのため野球も、ビリヤードもできなくなった。そして何より、何で痛いのかがわからなかったのが一番辛かった。今も原因はわからないのだけど、手根骨が壊死しているということがわかっただけでも楽になった気がする。 手術をしても以前のように戻るわけじゃない。だけど、これ以上の悪化は止められ、術後の経過次第で運動も問題なくできるようになる可能性があるらしい。きっと大変なリハビリになると思うけど、思い通り動かせるようになれる日を希望に頑張りたい。 May 06 青い海と戦車 連休の前半、5泊6日でサイパンに行ってきた。人生初のツアー旅行、そしてビーチリゾート。プライベートでバックパックじゃなくてスーツケースを片手に海外へ行ったのも初めてだった気がする。 前半はダイビング。ラウラウビーチ、オブジャンビーチ、グロットと二日間天気に恵まれていて絶好のコンディションだった(とインストラクターは言っていた)。中でも外海と二つの穴でつながっている洞窟、グロットは素晴らしかった。 急な階段を下り、天然のプールに飛び込むとそこは透明度40m近い青の世界。何層もの青と、穴から差し込む光が作り出した光景はただただ幻想的だった。いや、正直に言うともっと的確に表現したいのだけど、幻想的という陳腐な言葉しか浮かんでこない自分がもどかしい。もし叶うのならば三島由起夫を連れてきてグロットに潜らせたい。そして思う存分美しさを語ってほしい。かえすがえすも水中で撮れるカメラを持っていなかったのがもどかしい。 残り二日はヒストリカルツアー、そして最終日はビーチでゆっくり。サイパンは第二次大戦でも激戦地となったところでもある。この島が陥落したことによりB29での日本本土への爆撃が可能となり本土空襲が始まったという。空港のそばに旧日本軍の戦車が集められてあったのだけど、日本人観光客(僕もだけど)を大勢乗せて降り立ってきた飛行機と60年前に同じ日本人が乗って戦った戦車、この二つのコントラストが印象的だった。 それにしてもサイパン、どこに行っても日本語が通じる実に便利なところだった。島民の収入の多くを日本からの観光客に頼っているのだろう。そしてもう一つ、バブルの過剰投資のツケか相当さびれており、廃墟同然のようなホテルも見かけた。日本にとって敗戦の象徴のような島の経済が日本人によって左右されているのも複雑だけど、今後は中国人観光客で第二の海南島みたくなっていくのかもしれない。そうだとしてもくれぐれもサイパンの美しい海に「カー、ペッ」とタンをはくのだけはやめてほしいなあ。 May 03 命の息吹撮りためたまま放っておいたデジカメを整理していたら、二週間ほど前の御在所岳に登ったときの写真が出てきた。三重と滋賀との県境、鈴鹿山脈の1200mほどの山なんだけど、意外なほど急峻な道を登る途中に咲いていた花が印象的だった。 April 21 松の司 先日、留学から一時帰国した友人と一年ぶりに会った際、新橋で素晴らしい日本酒に出会った。 -松の司- まるで水のように軽やかな当たりなのに、口のなかで旨みと深みが広がっていく。 日本酒って甘口、辛口好き嫌いってあると思うけど、これを嫌いな人はいないんじゃないか。 これまで大した日本酒を飲んだことないけれど、僕が生涯で飲んだ日本酒の中で一番うまい酒だった。 途上国暮らしが四年になった友人にも喜んでもらえたのはなにより。今度、誰かに酒を贈る機会があったら、ぜひこの酒を贈りたい。 |
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