人に学びて、自然とともに生きる

Never stop exploring, Keep your curiosity fresh

キーンベック病 Index

with one comment

右手首の痛みが出てから2年の間、原因がわからなくて悩み、10軒近く病院に行ってキーンベック病という病名がわかってからも情報がなくて大変だった。手首の痛みで悩んでいる人、キーンベック病の治療で悩んでいる人、手術しようかどうか迷っている人。少しでもそんな人たちの参考になればと思い、僕のキーンベック病の経緯についてまとめてみました。

■体験記まとめ

キーンベック病体験記(1)キーンベック病ってこんな病気
キーンベック病体験記(2)手首の痛みの発症と初期治療
キーンベック病体験記(3)痛みの悪化と手術の決断
キーンベック病体験記(4)手術と術後の経過

キーンベック病体験記(5)プレートとボルトの除去 ←2013年5月更新!

■時系列まとめ

2006年5月:右手首に痛みが出始める。整骨院、病院へ行くが「腱鞘炎」と診断される
2008年1月:痛みが悪化し、何箇所か整形外科を回ったあと名古屋の中日病院の手の外科にたどり着きキーンベック病と診断される
2008年3月:ステージ3との診断され、これ以上の病状の進展を防ぐため橈骨楔状骨切り術および、月状骨への移植手術を決断
2008年5月:橈骨楔状骨切り術および、月状骨への移植手術。執刀医は中村寥吾先生
2008年7月:一ヵ月半でギブスを外しリハビリ開始。転勤に伴い、昭和大学付属豊洲病院に転院。
2009年4月:1年かけてほとんど骨がくっつく

2013年4月:手術の際に埋め込んだプレートとボルトを除去(通常は2、3年で除去)

■病気・入院レポート

ギブス(2006年5月)
手術と入院(2008年5月)
入院便り(2008年5月)
感謝のキモチ(2008年5月)

Written by shunsuke

2013年5月2日 at 6:12 午後

カテゴリー: キーンベック病

キーンベック病体験記(5)プレートとボルトの除去

with 4 comments

2008年5月のキーンベック病による橈骨楔状骨切り術および、月状骨への移植手術から丸5年。この2013年4月末にようやく手術の際に埋め込んでいたプレートとボルトを除去した。

以前の経緯はこちらを参照→キーンベック病 Index

手術で真っ二つにした橈骨をつなげるために、5cmのチタンプレートを5本のボルトで骨と固定、それを今回取り出した。別にボルトを摘出しなくても大きな問題があるわけではないが、日本だと僕のような30台の場合とりだすことがほとんどだそうだ。欧米の場合は取り出さないことのほうが多いとのこと。

僕が通っている昭和大学付属豊洲病院の富田先生によると、取り出したほうがよい理由は以下の二つ。①まだまだ骨が若いのでプレートを入れっぱなしだと骨がプレートに頼ってしまう。②万が一プレートがある場所を骨折した場合、骨が複雑な折れ方をしてしまう。前の手術痕からメスを入れて取り出すだけの簡単な手術なので2013年3月に手術を決断。4月末に手術を行った。

日程は全部で4日間。初日に入院、二日目に手術、三日目経過を見て、四日目に退院。昭和大学付属病院の場合、全身麻酔でやるのだが思ったより術後の気分が悪い時間が長くて大変だった。

2008年の手術後の写真

キーンベック病体験記(4)手術と術後の経過

こちらが5年間身体の一部だったプレートとボルト。取り出されてみると不思議な気分だ。ウユニ、キリマンジャロ、サハラ砂漠、パタゴニア。この5年間一緒にいろんなところへ行ったなあ。

IMG_2750

そして手術後に撮影したレントゲンがこちら。これまでプレートとボルトが埋まっていた痕がくっきり残っている。富田先生によるとこの痕は骨が次第に埋めていき半年もたてば元通りになるそうだ。

IMG_2778

術後はしばらく骨が痛い感覚が残ったけど、手術から5日ほどでそれもなくなり文字を書いたりキーボードをたたいたりするのも苦なくできるようになってきた。2006年から苦楽をともにしたキーンベック病の治療もこれで終了。これからの人生、再度悪くならないようにできる限り手首に負担をかけないようにしながら生活していきたい。

Written by shunsuke

2013年5月2日 at 6:06 午後

DAY1: 世界のハブ、ドバイ

leave a comment »

12月21日、定時に仕事を終え18日間の旅行に向けて成田へ出発する。今回は初めてのエミレーツ航空、年末年始のこの時期に北米経由便よりもだいぶ安く20万円ちょっとでブエノスアイレス往復チケットが買えたので、西回りで南米に向かうことになった。

エミレーツは話に聞いていた通り、各国からのCA、クルーが集まっていて、東京-ドバイの便でも英語、中国語、日本語、アラビア語、ロシア語、スペイン語、韓国語など10ヶ国語以上に対応していて、驚いた。ドバイで降りる際に米国籍のCAと5分ほど話をしていたのだけど、「各国から集まったクルーがそれぞれの文化を持ち寄りつつ、英語を共通の受け皿にして互いの意見をぶつけ合って仕事をしている」との彼女の言葉が印象的だった。

彼女によると、120カ国からのクルーが働いているとのこと。多国籍企業とかグローバル企業とかよく聞くけれど、これほどバランスよく世界の国から人が集まっている国、企業も少ないだろう。UAEがもともと人的資源が少ないこともあるけれど、世界から人をドバイに集めてくるとの戦略を垣間見た気がした。

IMG_2514

もうひとつ感じたエミレーツ航空のすごいところが、どこのアライアンスにも属さずにこれだけ各国にフライトを飛ばして人をドバイに吸い寄せていること。スターアライアンス、スカイチーム、ワンワールドと3つのアライアンスのどこかに属する航空会社がほとんどの中、エミレーツは各個別の航空会社との提携にとどめて独自路線を貫いている。エミレーツ航空の目的が、航空会社として利益を上げることもそうだけど、トランジットを含めてドバイに人を吸い寄せることにあるからなんだと思う。

エミレーツはドバイ政府が運営している国営企業だ。そして元々石油で財を成したドバイは2000年代からドバイを観光立国にすべく、人を引き寄せる仕組みを生み出し続けてきた。世界各国とドバイを結ぶ便を充実させ、どの航空会社よりも早く最新の航空機を導入し、適度な価格で素晴らしいサービスを提供して、ドバイを通じて世界の人を結びつける。ドバイに人を集めるという国家戦略を実行させるための手段、それがきっとエミレーツ航空の位置づけなのだろう。旅行客にエミレーツを選択してもらいドバイに寄ってもらうよう、どこのアライアンスにも属さずに自らが世界のハブを目指す。そんなドバイとエミレーツ航空の野望を感じた。

ちょうどドバイは空港50周年だそうで、50年の変遷を写真で展示していた。30年前まで何にもなかったこの場所が世界のハブになっていくなんて、当時は誰も予想できなかっただろう。

IMG_2439

東京からドバイまでは12時間、2時間のトランジットの後さらにリオデジャネイロ経由でブエノスアイレスまで19時間、合計で33時間。南米は遠いぜ。

Written by shunsuke

2013年1月7日 at 6:32 午前

新年の挨拶とご報告

leave a comment »

新年あけましておめでとうございます!

報告が遅れましたが、昨年11月20日に入籍をし苗字が変わることとなりました。聞いたところによると、結婚の際に97%の夫婦が男性側の苗字を選択するとか。ということは僕は3%しか経験できない貴重な経験をしたことになる。どちらにしても34年の独身生活と16年間の一人暮らしにピリオドをうったのは感慨深いです。これからは家族とともに歩む人生をみなさんと共有していきたいと思うので引き続きよろしくお願いします。

さて、今年の新年はパタゴニアで年越しでした。18日間の休みをもらい、イグアスの滝で水浸しになり、世界最南端の町ウシュアイアでペンギンと鳥とアシカとたわむれ、フィッツロイとパイネの山々を歩き、氷河を探検してきました。何も言わずに送り出してくれた妻に感謝、ほんとありがとう。

CIMG2197

今年は家族と過ごす時間を大切にしていきたいので旅に出る機会も少なくなると思いますが、皆さま今年もよろしくお願いいたします。

Written by shunsuke

2013年1月6日 at 6:51 午前

風の国パタゴニアへ

leave a comment »

今年の年末は18日間で南米パタゴニアに行くことになりました。イグアスの滝で水しぶきを浴び、世界最南端の街ウシュアイアでビーグル号がたどった海をクルーズし、ペリトモレノの巨大な氷河の上を歩き、  チリのパイネとフィッツロイをトレッキング。

03806x

実は今年の年初から企んでいて、上司を説得しながら休みを無事に確保。会社の同僚、そして理解してくれる妻に心から感謝です。

思えば僕が初めて「パタゴニア」の名前を聞いたのは、今から20年以上前のこと。椎名誠さんの「パタゴニア」を88年くらいに読んで、それ以来あこがれの土地だった。

「いつかはクラウン」ならぬ、「いつかはパタゴニア」。

今回改めて読み直して、パタゴニアに吹く風と原野を埋め尽くす一面のタンポポの光景に思いを馳せてみた。風の国、パタゴニア。どんな景色との出会いが待っているのか、想像するだけで興奮してくる。

ちょうど今はブエノスアイレスまでの経由地、ドバイに到着したところ。ではではいざパタゴニアへ!

Written by shunsuke

2012年12月22日 at 12:05 午後

カテゴリー: 2012/12 Patagonia

Tagged with ,

北海道/つくばマラソン完走!

leave a comment »

もう三ヶ月くらい前のことになるけど、8月26日に北海道マラソンを無事に完走しました。5時間の時間制限があって、なおかつ真夏に開かれる大会なので走りきれるか心配だったけど、ネット4時間45分台で無事に走り切れたのですよ。去年のつくばマラソンで5時間24分かかったことを考えると、これはうれしい。

札幌は小学校1年の秋まで3年間住んでいた思い出の地で、この年になって久しぶりに訪れてみて改めて今の自分を形作っているものの原点がある場所なんだなと感じた。走っている途中に昔の記憶の断片を探りながら、豊平川の流れを見て鮭の幼魚を放流したことを思い浮かべたり、ビルの間に挟まれた時計台を見ながら家族で来たことを思い出したり。

そして、マラソンのゴール前に忘れられないことがあった。

ゴールまであと1kmほどの北海道庁で70歳くらいのじいちゃんが一人トランペットで北の国からを演奏していたんだ。40kmを過ぎて気持ちも身体もへとへとで限界に近づいていたそんな時に、あのメロディが耳に入ってきて、そしたら3年間の間に家族で訪れた北海道の各地の思い出がフラッシュバックのようによみがえってきた。空を埋め尽くすような然別湖の星空、圧倒された知床の自然。もう25年以上も前なのにほんと不思議なくらい鮮やかによみがえってきたんだ。その瞬間、限界に近づいていたことと懐かしさの気持ちがあふれて涙が止まらなくなってしまった。もう、ほんとサングラスしていてよかったよ。

30歳を過ぎていっそう涙もろくなってきたけれど、こんなに涙が止まらないのは5年ぶりくらいの経験だった。

そして11月にはつくばマラソンを4時間38分で完走。一週間前まで風邪を引いていて途中10日間も走れなかったことを考えるとまあまあの出来。だけど、今年の目標にしていた4時間切りは来年に持ち越しだね。

肝心の体重はマックスの73kgから5kg減って68kgになった。だけど思ったより減っていないし、脂肪も落ちていない気がする。来年こそさらに肉を落として4時間切りを目指したいと思います。

Written by shunsuke

2012年12月11日 at 4:39 午後

コーカサス旅行 Index

leave a comment »

■日程:2012年4月27日~5月7日

■旅程
4/27 SU261 成田 (NRT) 1200 モスクワ (SVO) 1710
SU1852 モスクワ 2035 バクー (GYD) 0035 (+1day)
4/28 バクー →
4/29 → トビリシ (Tblisi)
4/30 トビリシ → メスティア (Mestia)
5/1 メスティア → ウシュグリ村 (Ushguli)
5/2 ウシュグリ村 → メスティア → トビリシ
5/3 トビリシ → エレヴァン (Erevan)
5/4 エチミアジン → ゴリス (Goris)
5/5 ゴリス → タテヴ (Tatev) → エレヴァン
5/6 SU1865 エレヴァン (EVN) 0700 モスクワ (SVO) 0850
SU262 モスクワ 2000 成田 1020

■日記
DAY1:広いぜロシア!
DAY2:新しさと古いものが同居する街、バクー
DAY3: モスクの国から教会の国へ
DAY4: 塔が建ち並ぶ谷
DAY5: 雪山と新緑、そして血塗られた村
DAY6: グッバイ、ウシュグリ
DAY7: 山と教会の国、アルメニア
DAY8: 谷の町ゴリス
DAY9: 崖の上のタテヴ
DAY10: モスクワの街を戦車が走り抜ける

コーカサスで感じたこと

Written by shunsuke

2012年11月13日 at 8:12 午後

カテゴリー: 2012/05 Caucasus

DAY10: モスクワの街を戦車が走り抜ける

with one comment

朝7時半のフライトに乗るため5時前に起き、まだ真っ暗なエレヴァン市内を走り空港へ向かう。エレヴァンの空港は最近建てかえられたらしく、モダンで新しい。古い建物が多いこの国ではひときわ目立っていた。飛行機は定刻どおり飛び立ち、ふと左側の窓を目にやると、それらしき方角に雲の上に顔を出しているきれいな形の山が見えた。あれがアララト山かな?

飛行機は3時間ほどでモスクワに到着。実は、1日2便あるエレヴァン便でも朝早い便にして初めてのモスクワ観光をするのだ。このためにちゃんと東京でロシアのトランジットビザを取っておいた。6年前にトランジットした時には暗いイメージしかなかったモスクワの空港もすっかり新しくなっていて見違えるよう。さっそく空港と市内を結ぶAero Expressに乗って街へ繰り出す。片道300ルーブル(9US$)、2008年に開業した列車は30分置きに出ていて、空港同様ピッカピカ。

快適なエアロエクスプレスは新緑のモスクワ郊外を走り、35分ほどでベラルーシ駅に到着。ここが地下鉄と接続していて地下鉄に乗り換えて一路モスクワの中心、赤の広場を目指す。しかし、プラットホームに降りて地下鉄への乗り継ぎ口を探すも、あたり一面キリル文字表記で地下鉄乗り場がわからない!空港に直結しているだけあって、駅前はやたら両替屋さんの看板が目に付いた。

ようやくMのマークの地下鉄入り口を見つけて中に入る。金色の彫刻で門がかたどられ、扉は木でつくられている。まるでどこかの美術館の入口のような豪華なつくりだ。噂には聞いていたけれど、すごい。

そしてこちらも噂の長いエスカレータで地下に降りる。日本よりスピードが速いのだけど、30秒は乗っていただろうか。大江戸線もびっくりの深さ。さすが共産圏の総本山だ。

この地下鉄で3駅進み、赤の広場に近いTeatraljnaya駅で降りる。それにしてもモスクワ地下鉄の駅名は読みづらい。Teatraljnayaって、何て読めばいいんだい?地上に出て赤の広場方面に向かおうとするが、なんだか警備が物々しい。赤の広場前の道には柵が設置されていて、前には警備員が立っている。

警備の人で英語を話すことができる人がいたので聞いてみると、なんだか今日はMilitary ParadeがあるからNo enter Red squareと言っている。ん・・・ということは僕は赤の広場に行けないの?せっかくビザまでとってモスクワ市内に着たのに!そんなことを切に訴えていると後ろのほうから爆音が聞こえてきた。どうやらパレードが始まったらしい。赤の広場に続く大通りに駆けつけてみると、前方から装甲車が走ってきた。これはある意味すごい!

道の両側にはすごい人垣。みんなスマホやカメラを掲げて興奮気味に写真を撮っている。英語が上手な人に聞いてみると、WWII戦勝記念パレードの予行演習だとか。

ミサイルを積んだ車も赤の広場に向けて目の前を通過していく。日本で言えば皇居前の道を走っているようなもんだ。これはすごい。

 

しばらくすると今度はヘリコプターが飛んできた。ロシア国旗やその他いろんな旗が運ばれていく。

外国人がこんなのを見ていいのだろうか?そんな風に感じてしまうけど警備員にもとがめられていないし、きっといいんだろう。きっと軍事マニアの人たちにはたまらない光景なんだろうな。中川八洋さんが見たら興奮ものだろう。装甲車や戦車が赤の広場方面に走り去った10分後、今度は戻ってきた。まだあるのかよ!

それにしても戦車っていうのは音がうるさいし、すごく油を使いそうなしろものだ。こりゃ、戦争は金がかかるわ。そんな当たり前のことも目の前で戦車が走る姿を見ると実感を伴ってくる。パレードの予行演習が終わった後も明日の本番に向けて準備が進められているらしく、バリケードはとかれない。聖ワシリー教会もこんな近くにあるのに中に入れないなんて!遥かなるたまねぎよ。

僕と同じように赤の広場を見にやってきて中に入れず外から見つめる人たち。昼前からずっと待っている人もいたけれど、今日はもう無理そうだ。もしかしたら僕みたいに今日この日に赤の広場へ行くために遠くから来た人もいたのかもしれない。そういえば、地下鉄の駅を降りたところでも警官がパレードのために道を塞いでいて、通行人から「こんなことしかやらないプーチンなんてとっとと消え去れ!」みたいなことを言われていた。僕はたまたま訳してくれた人がいたからわかったんだけど。そりゃ、みんな迷惑だよね。

飛行機は夜7時の便だったので赤の広場付近を散歩して時間をつぶす。ロシア正教会といえば、この玉ねぎ型の屋根。この屋根を見るとなんとなくモスクに見えてくる。

散歩している間にポツポツと雨が降り始めてきたので、早めに空港に戻る。今回もあわただしい旅行だったけど、最後に珍しいものも見られて充実した10日間だった。

Written by shunsuke

2012年10月25日 at 11:03 午後

カテゴリー: 2012/05 Caucasus

Tagged with , ,

DAY9: 崖の上のタテヴ

with one comment

ゴリスで迎える朝、夜明け前の5時に目を覚ます。そもそも昨日5時間近くもかけてここまで来たのは崖の上に建つタテヴ修道院の夜明けを見たかったからだった。コーカサスまでの飛行機の中、雑誌「旅行人」のコーカサス特集に掲載されていたタテヴ修道院の写真。夕日か朝日を浴びて断崖絶壁に建っているその姿がとても美しくて、ウシュグリ同様ひとめぼれしてしまったのだ。写真が見つからないのが残念だけど。

かくして朝日を浴びるタテブを見るために早起きしたものの、空は厚い雲に覆われている。少し明るくなってきた外を見渡してもここから20km離れたタテヴへ行ってくれそうなタクシーが見当たらないので、谷の向こうのオールドゴリスまで散歩する。道を歩くと大量の牛たちが朝のお散歩中だった。

宿のおばちゃんの話によるとここゴリスでは100年ほど前まで人々は横穴を住居として暮らしていたらしい。その洞窟のような穴が今でも残っていて、それをオールドゴリスと読んでいる。川を渡り対岸のオールドゴリスまで足を伸ばしてみると、今では墓地になっていた。

オールドゴリス散策中にすっかり夜は明け、町がにぎわい始めてきた。時計を見るともう7時を回っている。タクシーを捜すと、今にも止まりそうなボロボロのプジョーがすぐに見つかり、往復7,000ドラム(18US$)でタテヴまで行ってくれることになった。ここゴリスがそうであるように、このあたりは河の流れが深い寝食谷を作り出していて、車はその谷に沿うように進んでいく。九十九折の坂を何度か登ったり下りたりするたびにおんぼろの車が止まってしまわないか心配しながら進むこと30分、視界の先にタテヴの修道院が見えた!すごい、本当にギリギリのところに建てられている。

後で聞いた話によると、途中の街からタテヴの修道院を結ぶロープウェーができていて、それに乗れば速く着くらしい。僕もドライバーもそんなことは知らずおんぼろルノーで坂を登りここまでたどり着いた。まだ朝早い時間のせいか、僕以外に観光客は誰もいなくてひっそりとしている。静謐との言葉がぴったりな雰囲気だ。

修道院の礼拝堂から何か音が聞こえてきているので、木製の重い扉を開けると中で二人の修道士がアルメニア語で祈りを捧げていた。窓から差し込む朝の光、修道士、そして意味のわからない祈りの言葉。きっと中世の礼拝のようすもこんな感じだったのかな。

しばらく礼拝堂でたたずんだ後外にでる。タテヴの修道院に着いてから30分くらい経つけれど、誰もやってこない。この雰囲気を独り占め。アクセスが悪いせいか、教会や遺跡に行く時は他に観光客がいない時に行くのが一番だ。

結局タテヴには1時間ほどいてゴリスの街に戻り、宿で遅めの朝食をいただく。朝ごはんを食べながらマスターと話していると、どうやら3,500ドラム(9US$)でエレヴァンまでの乗り合いタクシーを手配してくれることが判明、しかも宿まで迎えに来てくれるとか。ゴリス滞在の間、ずっと厚い雲が空を覆っていたけれど、ゴリスの街は石造りの家が並んだきれいな町並みで、また来たいと思わせる場所だった。

宿でタクシーが来るのを待っていると、マスターの言葉通り10:30にタクシーがやってきた。僕を乗せた後街の中でさらに3人を乗せ、昨日バスで通った道を一路エレヴァンへ向かう。途中、今はトルコ領になっているアララト山がきれいに見られるスポットがあるのだけど、今日も厚い雲が覆っていてくっきり見えなかった。残念。大アララトとと小アララトがあって、左が小、右の麓しか見えていないのが大。大アララトは標高5,000以上もある巨大な山だ。信仰の対象になったのもよく理解できる。

午後1時過ぎ、4時間足らずでエレヴァンに到着。やっぱり乗り合いタクシーは速いな。到着した場所が地下鉄の通っているバスターミナルだったので、地下鉄に乗って街の中心に戻る。ところが、このエレヴァン地下鉄、アルファベット表記がまったくなくて全然読めない!始発駅だったから迷わなかったけど、これはアルメニア語がわからない人には大変だ。

アルメニア滞在の間、ずっと厚い雲が覆っていたけれど、エレヴァンで迎えた午後ようやく雲の切れ間から青空が見えたので、しばしエレヴァンの街を歩いてみる。街の中心Republic Square にあるマリオットホテルから眺めたアルメニア国立美術館。ここのアルメニア史の展示は紀元前の大アルメニアからの歴史と出土品が展示されていて見ごたえがあった。

街の中心部に唯一残るモスク、ブルーモスク。中は緑があふれていて近所の人、ムスリムたちの憩いの場になっていた。ここで英語が話せるイランから来ている学生がいたのでしばしおしゃべり。旧ソ連時代はアゼルバイジャン人が多く暮らしていて、彼らが通ったモスクがあったみたいだけど、ナゴルノ・カラバフ紛争が始まるとほとんどアゼルバイジャン人はアルメニアを去り、モスクは壊されてしまったとか。ここはイランがお金を出して修復、整備しているそうだ。一見平和そうなモスクの中も10年ちょっと前にはそんな歴史がある。そういえば大学の授業でコーカサスはバルカン半島と並んで民族が入り乱れて住んでいたことを議論したっけ。その現実をふと垣間見た瞬間だった。

翌朝早い便でモスクワへ飛ぶので、おみやげを探すがてら夕暮れが沈むイェレバンの街を歩く。アルメニアの国土は山ばかりで産業もなく寂しい国だけど、この首都だけは別世界のようにきれいに整備され人々もおしゃれ。ゴリスの宿で一緒だったイギリス在住のアルメニア人のおっちゃんによると、ユダヤ人と並びディアスポラの多い海外在住のアルメニア人からの投資もイェレバンに集中しているようだ。アルメニアンブリックとこの花屋さんの色使いが僕は大好き。

夜はホステルのメンバーとバーに行き、コーカサス名物のハチャプリを食べ収め。小麦のおいしさもぴかいちだったな。いよいよ明日はコーカサスとお別れかと思うとしんみりとしてきた。

Written by shunsuke

2012年10月14日 at 10:12 午後

DAY8: 谷の町ゴリス

with one comment

アルメニアでの二日目、今日は朝から4時間12,000ドラム(30US$)でタクシーをチャーターし、エレヴァンの近くにある教会群を訪れる。エレヴァンは世界最古といわれる街、そしてアルメニアは西暦301年に世界で初めてキリスト教を国教とした国。そんなこともあり、ここエレヴァン近郊にはアルメニア正教の総本山エチミアジンをはじめとして独特な教会が点在しているのだ。まず訪れたのはフリプシメ教会。教会だけでなく普通の建物も同じなのだけど、アルメニアの建築の多くが灰色から茶色、赤茶まで色の異なるレンガを組み合わせて建物が立てられていて、とても独特な外観になっている。

まだ朝の早い時間だったのだけど、中に入ると礼拝の真っ最中だった。司祭らしき人は黒のマントを羽織り、アルメニア語で祈りの言葉を唱えていた。まるで中世にタイムスリップしたかのような不思議な雰囲気の空間。

次にやってきたのはアルメニア正教会の総本山、エチミアジン。総本山だけあって、エレヴァンの市街地からそう遠くない場所に広い敷地を有しており、新学校や図書館、博物館なども同じ敷地内に入っている。レンガの色使いはどれも同じだと思っていたけれど、さすがにここの教会に使われているものは古く年季が入っていた。

世界最古のキリスト教国家の総本山だけあって、エチミアジンには旧約聖書やイエス・キリストにちなんだものが保存されている。教会の入り口の向かいにある場所でチケットを1,500ドラムで購入し教会の中で待つと、建物の奥にある博物館に入ることができる。ここにある目玉がロンギヌスの槍。これはイエス・キリストが十字架にはりつけにされた際、イエスの死を確認するためわき腹を刺したと言われているもの。槍の柄の部分も含めて保管されているのかと思いきや、先端部分だけだった。

この博物館には他にもノアの箱舟のかけらや、旧アルメニア帝国時代のものや中世の司祭がまとっていたマントなどが保管されていて、見ごたえがあった。ノアの箱舟の話、本当かどうかはさておき、ここにあったら本物なんじゃないかと思えてくる、そんな空間。たいていこういう博物館は撮影禁止なのだけど、「好きなだけ写真撮って宣伝してね」と博物館のお姉さん。こういうのたまにはうれしいね。

エチミアジンでアルメニア正教の奥深さに触れた後はズヴァルトノツの教会堂の遺跡へ向かう。ここもフリプシメやエチミアジンと同時代、古代アルメニアが最盛を極めた7世紀に建てられた教会。当初は高さが45mの塔のような建物で、「天使の聖堂」とも呼ばれた他に類のない教会だったが、930年の地震で倒壊して今では円柱のみが残っている。

三箇所の観光を終えた後はエレヴァンに戻り、南部の街ゴリス(Golis)へと向かう。タクシーに南部行きのバスが出るターミナルまで送ってもらうも、ゴリス行きバスは朝の一便のみでマルシュートカを1台7,000ドラム(18US$)でチャーターしなきゃ行けないらしい。ちょっと迷うも隣にゴリスのちょっと手前の街、シシアン(Sisian)行きのバスがあったので、それに乗り込む。シシアンからゴリスまでは40キロくらいなので何とかなるだろう。乗り込んだバスは10分ほどで出発し、すぐエレヴァンの郊外に出た。郊外に出ると昨日も遭遇した羊の大群が道をふさいでいた。

バスは2時間ほど走った後ドライブインのようなコーヒースタンドのような場所で休憩。そこのコーヒースタンドの看板娘がこれぞアルメニア美人!まだアルメニアに丸一日しかいないのに「これぞ!」も何もないけど、とにかく吸い込まれるようなきれいな人だった。

昨日も雪をかぶった山を見ながら峠を越えたけど、今日も雪山に囲まれた高原地帯を進み2,700mくらいの峠を越える。街もほとんどなく、ただひたすら山と草原が広がっていた。4時間ほど走り、バスの終点シシアンに到着。ここでタクシーを捕まえ、3,000ドラム(8US$くらい)でゴリスに行ってもらう。この辺までくると、あともう少し南に行けばイランなんだなあ。そう地図を見ながら灌漑に浸る。雨上がりの道と新緑がきれいだ。

シシアンから30分ほど車で走るとゴリスの街が見えてきた。谷底にへばりつくように街が広がっている。

宿は旅行人で評判がよさそうだったHostel Golisに向かう。季節はずれなので他に客がいないと思っていたけど、満室で日本人のツーリストと相部屋に。4部屋しかない小さなゲストハウスだけど共用のテラスが気持ちよくてリラックスできる場所だった。宿の雰囲気ひとつで街の印象が変わる、なんて現金なんだ。ま、そんなものか。

夜は街に一軒だけあるというそれなりのレストランで食事。羊の野菜煮込みを注文。アゼルバイジャン、グルジアと期待を超える料理が多かったけど、ここの料理もじゃがいもが甘くておいしく絶品だった。気候が厳しいと野菜はおいしさが増すね。

レストランから宿の帰り際、水を買おうと商店に寄ると「キタイ?」といつもの中国人攻撃。ヤポンヤポンと答えると、おばあちゃん初めて日本人に会ったようで大喜び。僕らがアルメニア人とグルジア人とアゼルバイジャン人の区別がつかないのだから、彼らからしてみたら日本人も韓国人も中国人も同じなんだろうね。でも、こうして日本人と会って喜んでくれるというのは単純だけどうれしいもの。

明日の朝は早起きして崖の上に建つ、タテヴの教会へ行ってきます。アルメニアのハイライト!

Written by shunsuke

2012年10月10日 at 6:32 午前